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東京地方裁判所 昭和46年(ワ)4880号 判決 1973年3月10日

原告 小松克二

被告 国

訴訟代理人 菅野由喜子 ほか一名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

<省略>

第二当事者の主張

一  原告の請求の原因

(一)  横浜地方検察庁検察官は、昭和四四年六月一七日横浜地方裁判所に対し、原告を要旨左記のとおりの公訴事実により業務上過失致死の罪名で起訴した。

「被告人(原告)は、昭和四三年二月二一日午前三時四〇分頃普通乗用自動車(トヨペツトクラウン横浜五れ六八六八号)を運転して横浜市中区初音町二丁目三九番地先道路上を走行中、前方注視義務を怠り慢然進行した過失により路上に横臥していた金尾進(当時四六歳)を轢過し、よつて、同日午前四時三〇分頃同市同区蓬莱町三丁目一一二番地藤井医院において死亡させた。」

(二)  横浜地方裁判所は審理の結果昭和四五年二月二七日原告に対し、禁錮六月(実刑)の有罪判決を言渡した。

そこで、原告は右判決に対し、事実誤認を理由として東京高等裁判所へ控訴の申立をしたところ、同裁判所は昭和四五年一二月七日原告を犯人とするには合理的な疑が残るとの理由で原判決を破棄し、原告に対し、無罪の判決を言渡し、同判決は検察官の上告がなく確定した。

(三)  検察官が私人に対し、公訴を提起するについては、十分に犯罪捜査を遂げ、かつ、収集した証拠を慎重に価値証価し、有罪判決を期待し得べき合理的な心証を得られて初めてこれをなすべき職務上の義務を負うところ、担当検察官は右の義務を怠り、次のとおり違法な起訴をした。

1 原告は一貫して本件犯行を否認している。もし原告が真実被害者を轢過したのであれば、直ちに逃走したであろうと考えられるのに、原告は被害者が横臥しているのを発見するやすぐさま交番に連絡している。

2 本件事故現場付近道路は夜間でも交通量がかなり多く、被害者は原告車以外の車輌に轢かれた可能性が大きい。

3 本件道路は、夜間照明が十分でないうえ、その中央部には路面電車の軌道敷として三〇センチメートル四方、厚さ一〇センチメートル位の石が敷設されているところ、これが長年の経過により凹凸をなし、右軌道敷を除くアスフアルト部分も波打つているというように、その道路状況は極めて悪いものであつた。

ところで、本件事故の目撃者とされる関口徳男、中村才二の各供述には、被害者が倒れていた状況につき重大な齟齬があるうえ、右の各供述は、いずれも相当離れた地点を走行しながらの目撃にもとづくものであり、しかも、原告車が被害者の身体に乗上げたというのではなく、被害者が横臥していた位置付近で急停車して上下にバウンドしたというに過ぎない。

したがつて、担当検察官が本件道路の路面状態につき捜査をしていれば、前記各供述から直ちに被害者を轢過したとの推断はできなかつたはずである。

4 警察官三本松俊夫作成の昭和四三年三月六日付実況見聞調書には、原告が停止し被害者を見たという位置からは車体のドアー等により視界を遮られて原告の供述する状態で倒れている被害者を見ることはできす、また、その位置からは道路右側の余裕幅が狭いので、原告の供述するように一回でユーターンすることは不可能であり、被害者の全身が見える地点から反転するためにはハンドルの二度ないし三度の切換を必要とする旨記載されているが、原告訴訟代理人が本件事故現場で実験したところによれば、原告の供述は客観的事実に符合しているのであつて、右調書の記載は不正確というほかはない。

しかるに、担当検察官は右の点につき容易に捜査することが可能であるにもかかわらずこれを怠り、慢然右調書の記載を軽信し、これと相反する原告の供述を信憑性なしと断じたものである。

(四)  検察官による公訴の提起は公権力の行使に該当するから、被告は国家賠償法第一条にもとづき原告が右違法な起訴によつて蒙つた損害を賠償する義務がある。

(五)、(六) <省略>

二  請求の原因に対する被告の認否

(一)  請求の原因(一)、(二)は認める。同日のうち、原告が本件犯行を否認していたこと、被害者を発見後交番に連絡したこと、原告主張の実況見聞調書にその主張のような記載があることは認め、その余は否認する。

(二)  検察官は、公訴の提起をするにつき、それまでに収集した全証拠を総合して犯罪の嫌疑が十分であつて公判審理のうえ有罪判決を得る見込があるとの合理的心証に達したならば、起訴を猶予すべき特段の事情がない限り公訴を提起すべき職責を負うものであるが、このような起訴である以上、その後の公判審理において新たな証拠が提出されたり、裁判所が証拠の評価につき検察官と異なる見解をとつたこと等の理由により無罪判決が下されたとしても、検察官の公訴の提起が当然に違法となるわけではない。

検察官の公訴の提起に違法性ないし過失があるとするには、検察官がいわゆる自由心証の範囲を著しく逸脱し、有罪判決を期待し得べき合理的心証に達しないにもかかわらず起訴した場合でなければならない。

(三)  本件につき担当検察官が収集した証拠およびその信用性は次のとおりである。

1 目撃者である中村才二の検察官に対する各供述調書(甲第二〇ないし第二二号証)には「被害者が本件事故現場道路の北側車道のほぼ中央部に道路と概ね直角をなす状態に倒れてから約三〇秒後、一台の対向車が日の出町交差点方向から右車道のほぼ中央部を進行して来るのを発見し、危険を感じたが、同車は被害者に気付かぬ様子で接近し、被害者の倒れていた地点で「ボクツ」という音を出すとともに車体が上下に波打つように揺れたので轢いたと思つた。同車はさらに約一五メートル前進した後、前部を幾分右に曲げて停車した。これを自分は反対側車道上から右前方約四〇メートルのところに目撃した。同車は間もなくユーターンし、初音町交番前まで行つた。」旨の記載があるところ、右対向車が原告車であることは同車がその後交番へ行つた事実によつて明らかであり、また、右供述は原告と何ら関係のない第三者の目撃状況として信用に値するものであつた。さらに、被害者の死因に関する鑑定書(甲第一五号証)によれば、被害者の死因は胸部または腹部付近を轢過されたことによるものと認められるが、これは右供述中被害者の倒れていた地点、原告車の進路等位置関係に関する供述部分を裏付けるものである。

2 また、目撃者である関口徳男の検察官に対する供述調書(甲第二五号証)には「(私は)時速約四五キロメートルで日の出町交差点方向に進行する一台の乗用車の後方を、タクシーを運転し約五、六〇メートル離れて追従していた。右先行車は車道部分の中央よりやや軌道寄りを進行していたが、現場へ差しかかつた際上下に大きくバウンドし、同時に「ボクツ」という純い音を出し、幾分ハンドルを右に切つて停車した。これを見て私は何かに乗上げたと直感した。私が同車の右側を通過しようとして近づいたとき同車は発進しユーターンしたが、その際ナンバーを神五-六八六八と確認した。先行車がバウンドした地点には黒いものが倒れていたので、私はこれに乗上げないように軌道内に入りその横を通過した。」旨の記載があり、これは前記中村才二の供述とも符合し十分信用し得るものであつた。

3 原告は、司法警察員および検察官に対して本件犯行を否認し、自車の右側車輪が市電軌道敷の左側に乗る状態で初音町方面へ進行中、黒い物体が車道上に倒れているのを発見したので、ブレーキを踏んで右物体の右側軌道内に停止し、車体右側にある運転席にすわりハンドルを持つた状態で窓ガラス越に外を見ると、道路にほぼ直角に長靴をはいた足を軌道敷の方に投げ出して仰向けに倒れている人の全身が見えたので、車に轢かれでもしたら大変だと思い、その位置から右に一回でユーターンして初音町交番に届けたものである旨弁解している。(甲第一ないし第五号証、同第一〇号証)。

そこで、司法警察員が原告の右弁解の真偽を確認するため本件事故現場において実況見分を行なつたところ、原告主張の実況見分調書に記載された事実が明らかとなり、原告の右弁解には合理性がないことが判明した。

以上のとおり、前記各目撃者の供述はいずれも信用に値するものであるのに対し、原告の右弁解は右各供述に反するばかりか、客観的事情とも矛盾し、合理性を欠くものと認められたので、担当検察官は有罪判決を期待し得るとの確信を懐くに至り、その結果本件公訴を提起したものであつて、その判断に何ら違法性ないし過失はない。

第三証拠<省略>

理由

一  横浜地方検察庁検察官が昭和四四年六月一七日横浜地方裁判所に対し、原告をその主張のような公訴事実および罪名により起訴したこと、原告は同地方裁判所において有罪判決を言渡されたが、後控訴審である東京高等裁判所により無罪判決の言渡を受け、右判決は確定したこと等請求の原因(一)、(二)の事実は当事者間に争いがない。

二  原告は右公訴の提起が違法である旨主張するのでこの点につき判断する。

検察官は当該公訴事実につき有罪判決を得られるとの合理的心証に達したうえで公訴を提起すべきことは言うまでもないが、結果において無罪判決が確定したからと言つて直ちに右公訴の提起が違法となるわけではなく、検察官が事案の性質上当然なすべき捜査を怠り、または、収集した証拠の評価を誤るなどして経験則上到底首肯し得ない程度に非合理な心証形成をなし、犯罪の嫌疑がないにもかかわらず公訴を提起した場合にはじめてこれが違法となるものと解すべきである。

そこで、右の見地から担当検察官が本件公訴を提起した当時手元に有した証拠およびその信用性について検討する。

(一)  原告が警察および検察庁における取調を通じ一貫して本件犯行を否認していたことは当事者間に争いがなく、<証拠省略>によれば、原告の弁解の要旨は「私は、本件事故当日午前三時半頃自己所有の普通乗用自動車(トヨペツトクラウン横浜れ六八六八号)を運転し時速約四〇キロメートルで本件道路を初音町方面へ進行中、道路左側に一台のタクシーが停車していたので右に寄り、自車の右側車輪が市電軌道の左側レールに乗る状態でこれを追抜きそのまま進行していたところ、進路左斜前方約三〇メートルの本件事故現場付近車道上に黒いものが横たわつているのを発見したので、直ちにブレーキを踏んでその右側に停止した。運転席にすわりハンドルを持つたまま助手席側の窓ガラス越に外を見ると、黒いものをかぶつた人が頭を歩道、長靴をはいた足を軌道の方に向け道路にほぼ直角に仰向けの状態で倒れており、酔払が寝ていて危険だと思つたので、直ちにその位置から一回でユーターンし現場から約一〇〇メートル離れた初音町交番に届けたうえ、交番の警察官二名を自車に同乗させて現場に引返した。」との内容であることが認められる。

これに対し、

(二)  原告主張の実況見分調書(甲第一二号証)に「原告が停止し被害者を見たという位置からは車体のドア等により視界を遮られて原告の供述する状態で倒れている被害者の全身を見ることはできず、またその位置からは道路幅の関係で一回でユーターンすることは不可能であり、さらに被害者の全身が見える地点からユーターンするにはハンドルの二度ないし三度の切換を必要とする。」旨の記載があることは当事者間に争いがなく、

(三)  <証拠省略>によれば、中村才二の供述の要旨は「私は、本件事故当日午前三時半頃出勤のため自転車に乗つて本件事故現場付近市電道路を日の出町方面へ進行中、反対側車道上でふらふらしていた一人の酔払らしい人が頭を軌道、足を歩道の方に向けて仰向けに倒れたのを認めた。ところがその約三〇秒後右車道のほぼ中央部を時速四、五〇キロメートルで対向してきた乗用車が倒れた人に気付かぬ様子で接近し、同人の倒れていた地点で「ボクツ」というような音を出すとともに車体を上下に波打つようにバウンドさせ、さらに約一五メートル前進した後、前部を幾分右に曲げて停車したので、轢いたと思つた。これを私は右前方約四〇メートルのところに目撃した。同車は間もなくユーターンし初音町交番前で停つたので事故を届けたと思つた。」というのであり、

(四)  <証拠省略>によれば、関口徳雄の供述の要旨は「私は、本件事故当日午前三時半頃タクシーを運転し本件道路を日の出町方面へ進行中、反対側道路に女性客を認めたのでユーターンして乗車させたが、その際自車の右側を乗用車が時速約四五キロメートルで追越していつたので、同車と約五、六〇メートル離れて追随した。右先行車は車道部分の中央よりやや軌道寄りを進行していたが、本件事故現場付近に差しかかつた際上下に大きくバウンドし、同時に「ボクツ」という純い音を出し、やや前進した後ハンドルを右に切つて停止した。これを見て私は何かに乗上げたと直感した。私が同車の右側を通過しようと接近したところ、同車は発進しユーターンして初音町交番の方へ向つたので、その際ナンバーを神五-六八六八と確認した。同車がバウンドしたあたりには黒い衣服を着た人が頭を歩道、足を軌道の方に向けやや斜めになつて倒れていたので、私はこれに乗上げないように軌道内に入りその横を通過した。」というのであり、

(五)  <証拠省略>によれば、谷沢友行の供述の要旨は「私は、本件事故当日午前三時四〇分頃初音町交番に勤務していたところ、原告から酔払が車道の真中に寝ていて危険である旨の届出があつたので、他の警察官一名とともに原告の乗用車に同乗し、交番から約一〇〇メートル離れた本件事故現場へ行つてみると、車道上に黒いトツクリのセーターを頭からかぶつた男が頭を歩道、足を軌道の方に向けやや斜めになつた格好で仰向けに倒れていた。同人の後頭部には鶏卵大の血腫があり、声をかけても全然応答がなかつたので、通りかかつたパトカーを停め、これに乗せて病院に収容した。」というのであり、

(六)  また、<証拠省略>を総合すれば、本件被害者の死因は胸部または腹部を轢過されたことによる内臓破裂等であることが窺われる。

思うに、中村才二、関口徳雄両名の各供述は、いずれも原告と何ら利害関係のない第三者の体験にもとづく目撃状況として一般的に信用性があるうえ、被害者が倒れていた状況等若干の点で食違が見受けられるもののその重要部分において概ね符合し、かなり高度の信憑力を持つものと考えられるのに対し、原告の弁解は、右供述に相反するのみならず、右弁解の真偽を検討するため司法警際員が本件事故現場で実施した実況見分の結果(前掲甲第一二号証の記載)とも矛盾しているので、担当検察官がこれを排斥し、前掲(二)ないし(六)の証拠および前掲(一)の原告の供述中本件犯行を否認している部分を除くその余の部分を総合して本件公訴事実につき有罪の心証を形成し、有罪判決を期待し得るとの確信を懐くに至つたことは一応首肯し得るところというべきである。

もつとも、(1) 原告が被害者を発見後直ちに交番に連絡していることは当事者間に争いがないところ、原告が真実被害者を轢過したとすれば、直ちに逃走するか、または下車して被害者の救護にあたるのが普通であつて、これを放置したまま交番に届出をするとは通常考え難いこと、(2) 前掲中村才二、関口徳雄両名の各供述はいずれも本件事故現場から相当離れた地点を自転車またはタクシーで走行中の目撃にもとづくものであり、しかも原告の乗用車が被害者に乗上げたのを見たというのではなく、被害者が倒れていた付近でバウンドし急停車したのを見て轢いたと思つたというのであるから、その事実判断に誤謬の入り込む余地がないわけではなかつたと考えられること、(3) <証拠省略>によれば、原告は被害者を発見後ユーターンして本件現場から約一〇〇メートル離れた初音町交番に届出をしたうえ、警察官二名を自車に同乗させて右現場に引返したことが認められるが、その間に他の車輌が被害者を轢過した可能性も一概に否定し得ないこと等第二審刑事判決(成立に争いのない甲第六号証)の指摘する諸事由を合わせ考えると、前掲各証拠から直ちに原告の乗用車が被害者を轢過したものと断定することには若干の疑念が残らないわけではなく、有罪判決をするには未だ証拠不十分との判断をするのが相当であるとの考え方も十分成立しうるところであろう。

しかしながら翻つて考えてみれば、右(1) の事由にどの程度の比重を置くかは主観によつて相当の格差があり得るし、(2) の事由にしてもそれぞれ異なつた位置、角度からの両目撃証人が事実の認識につき同一の誤謬に陥る可能性はさほど大きくないとも考えられ、また(3) の事由についても<証拠省略>によれば、当時は早暁で本件道路の交通は閑散であつたことが認められ、かつ、原告が本件現場と交番との往復(より正確には原告が交番に赴き警察官を同乗させるまでと考えてよかろう)に要した時間はその距離等から判断して高々数分間に過ぎなかつたと考えられるから、その間に他車が被害者を轢過した可能性もそれほど大きくないともいえよう。

なお、原告は右(1) ないし(3) の事由のほか、本件道路は照明が十分でないうえ路面状況が劣悪であつたから、担当検察官は進んでこれらの点につき捜査すべきであつたこと、前掲実況見分調書の記載は不正確であることの二点を指摘しているけれども、<証拠省略>によれば、本件道路の路面状況等については司法警察員において一応の捜査を行なつているうえ、担当検察官は前掲目撃証人両名の供述(その信用性は前示のとおりである)から原告の乗用車は本件道路の車道部分を走行していたとの心証を懐いていたものと推察されるところ、右車道部分の路面状況がとくに劣悪であつたことを裏付ける資料はなく、また、前掲調書の記載が不正確であることを認めるに足りる証拠もない。また、当時の走行位置等が原告の弁解するとおりであつたとすれば、原告車の走行位置は軌道敷内ではあるが、原告は急停車したわけではないから、路面状況が劣悪であつたとしても、ほかの物体に乗り上げたと見誤まるほど激しくバウンドしたとは考えられない。

以上に考察したとおりであつて、一審裁判官が有罪の心証を形成したことには無理からぬ一面もあるものというべく、いわんや、担当検察官の本件公訴事実に関する前示心証形成が自由心証の範囲を著しく逸脱し、経験則上首肯し得ない程度に非合理なものであつたとは到底認められない。

三  よつて、原告の本訴請求はその余の点につき判断するまでもなく失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 真船孝允 篠清 安倉孝弘)

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